生後100日で行う。
生まれて七日目に行う。身近な人(お嫁さんの親、兄弟)を呼んで赤飯や頭付きの魚やお刺身、お野菜を使った料理でお祝いをする。内祝い。
子どもが生まれて7日目に行うお祝い。「すずや」とも言う。近親者と隣近所の人を呼んで、子どもの名前を披露する。
お祝いの食事は主に家の人が作りふるまった。鯉の甘煮や魚料理が多かった。そのごちそうを作るためにわざわざ塩釜まで魚を買いに行きそれをふるまった。塩釜に行き仕入れをしてくる。
「あそこの家ならあそこの家と家柄が合う」などと、目配り気配りしているおばあさんがいた。その人が仲人役として、両家の間を取り持っていた。結婚の相手が決まるまで面倒をみてくれていた。
隣家2件内で人が亡くなった時にだんごを作り、持っていく風習がある。だんごは遺体の前に13~15個ほどお供えされる。最終的には遺体と共に火葬場へ運ばれ焼かれる。
つけ木とは、数ミリの薄い木板の先に硫黄が付いているもの。ふろを焚く際に、囲炉裏でつけ木に火をつけ、ふろのかまどに火を移す時などに使われた。かつては貴重だった。つけ木を返すという風習には何か意味があったんだろうか(04WK氏)。何か縁起物だったのではないか(10TD氏)。赤飯は重箱に入れて南天の葉っぱを乗せ、ゴマ塩を振った。南天を乗せるのは、難を転じて福となす意味合いがあった。つけ木は喜びを隣の家にも移すという意味合いがあったのではないか(10TD氏)。
男女がそこらへんで立ち話をしていると「あそこの子はましぇこ(ませている子)だなー」と近所で言われた。話をするのは学校でだけくらいで一緒に帰るのもダメだった。親から怒られる。女性と会うにも隠れてこそこそと。恋愛はなくお見合い。
昔は自分の家で行っていたが、今の現代はホテルや結婚式場などに変わった。また、若者組が「向か去れよー!」と言いながら道路を歩いてくる。今はそういったことが行われていない。
生まれて1年目にする。家でついたお餅を風呂敷で包み子どもに背負わせる。子どもはお餅の重みで後ろにひっくり返ったり、ふらふらとする。08AMさんのところではまだしている。
千歳飴は昔はなかった(18KTさん)。18KTさんの子どものときにはあった。みんなが神社に行くわけでもなく、着物を着たわけでもなかった。自由だったらしい。(08AMさん)貧富の差もあった、貧しい小作人の家は地主の家に「あんにゃ」となった。
葬式を行う際にお金がない場合、地区の人々がお金を出し合いお棺の代金を賄った。矢柏の場合は200円~300円程度。黒沢、矢柏では現在も残っている。
互助会があり近所付き合いがよく、隣組のつながりが強かった。結婚式だけでなく、お葬式なども近所の方が手伝いに来てくれる。
戦前では、会ったこともない人の写真だけを見て結婚することが実際にあった。「結婚を経験させずに戦地へ行って死ぬのは申し訳ない。経験させてやりたい」という親の気持ちがあった。
生まれて最初にむかえる節句のお祝い。お嫁さんの実家の親などを呼び、お嫁さんの実家から、女の子は雛人形、男の子はこいのぼりか武者人形を買って届けてもらう。
3つの神社があり、甲箭神社(950年祭)では、子供会を中心として、みこしを行っている。出店がないため、町内会に頼んで、出店を出している。古峯神社(100年祭)では、昔、天狗のお面をかぶった一本足の下駄があり、後ろからつかれていた。天狗は、古峯神社の守り神。今年で100年祭。天狗の面を被った一本足の下駄で奉納する。子供の頃天狗から後ろをつかれると逃げていた。水天宮は三ヶ村の一つ。水の幸の守り神。川が一番低いところ合流するところに集落があった。
各家には朱塗りの御膳が必ずあり、それを使っていた。ない家は各地域にある倉から御膳の貸し借りをしていた。貸出できる調度品が揃えてあった。
恋愛というのはなかった。恋愛をするとおかしげな目で見られた。自分が100%好きな人とは結婚できなかった。「嫌だ」と言われた人も少なくないと思われる。決まらないと親どうしで決めることもあった。
立志式はなかった。成人式はあった。内容は今と同じようなもの。山形は市役所で行われていた。女性は着物(振袖)を着ていた。(08AMさん)成人式はなかったし着物は着れなかった。袴。(18KTさん)着物ではなくスーツを着ていた。振袖はめったに見られないもの。今とは違い厳かな式だった。(15TKさん)
手紙のやりとりから始まる。言葉をかわすことはなくても、手紙のやりとりで情が深まったり、心が繋がったりする。
黒沢では縁日が4月15日だったが、4月29日に移されてしまった。5間の柱を2本立てる。かつては旗を道路わきに立てていたけれど、交通上危険だからということで神社の山の方に立てるようになった。
松原には3つ祭りがある。4月29日のは薬師祭り(薬師堂のお釈迦様の祭り)。26日の朝5時から旗立てを若い衆が行った。いまでは若い衆がいないので自治会実行委員が代行して行っている。旗は4本立てる。28日が前夜祭で、その時に獅子頭と太鼓をリヤカーに付けて叩きながら各戸を頭噛みしながら回った。しかし今は人手不足のため、薬師寺の薬師堂の前で参拝者に頭噛みをする。そのほか、参拝者にはお護符とお神酒を渡す。
年中行事の一つ。1月11日の夕食後、若い人たちが集まって「ながもち唄」を覚えるために集まって練習をした。
夜回りしたり結婚式を手伝う(08AM)消防は16歳~32歳まで。10年間すると市役所から感謝状をもらう。(08AM)tt
秋葉山では火伏せの神様を祀っている。松原では火災が多く、明治21、2年、その前にも、またごく最近にもあった。かつては藁ぶき屋根だったので、一度火災が起こると延焼が怖い。そうした経緯もあり、秋葉山の頂上に秋葉山神社を祀っている。秋葉山の管理は若い衆や消防団がやっていたが、いまでは自治会の三役が事実上執り行っている。しかし特定の宗教行事を行政がやったとなると問題になるので、実行委員会を別に作って管理を行うことにしている。山の神の祭りもある。近くの山の頂で行う。
片谷地の稲荷神社は、もとは桑嶋家に祀られていたものだった。伝承ではきつね坂と呼ばれるところに、きつねがむかさり(お嫁に)やってきた。そのきつねが桑嶋家に宿泊し、そのままそこに落ち着いたのだという。
獅子頭をかぶって全戸をお払いして歩く。頭噛み(頭を噛むふりをする)をする。噛まれる人は健康、病気にならない、幸せになるなどの言い伝えあり。大人が先に噛んでもらうと、子どもは大人しく噛まれる。
祭りは家並で十軒が集まって担当グループを作り、一軒ずつ「薬師寺様でしたー」と言って回る。すると各戸から「ご苦労様でした」と返答があり、のし袋に1000円や500円を入れて渡してくれる。そのお金を集めて、前夜祭の来客にごまおにぎり・にしめ・おひたし・干し大根の酢の物を出してもてなす。担当者たちはお神酒をいただきながら、今年の農作物の出来などについて世間話をにぎわせる。
携帯電話はもちろん、電話もない時代で、人と人との繋がりは密だった。
松原では5月8日にお祭りをやっていた。それが生活改善運動(30年代初めごろ)で日程が同じになってしまった。以前は日程がずれていたので、黒沢で祭りがあるときは松原から親せきが手伝いに来るなどすることができた。
29日はお祭りの本番。松原では、最近は出店もなくなってしまった。ただ今年は消防団の人たちが焼きそばやこんにゃくを出してくれた。黒沢でも出店がないので、50円市場(50円で何でも買える市場)を実行委員が企画した。30日には早朝に旗を片づける。
前夜祭も行われている。お祭りの予行練習のようなもの。カラオケ大会や踊り、相撲大会が行われ、出店もたくさん建っている。たくさんの人が訪れた。煮しめなどの料理も当番の人によって作られる。現在相撲大会は行われていない。
片谷地では、お祭りの中心となる育成会の会長と副会長は1年ずつ受け持つ。だから、引き継ぎは2年に1回。松原では、集落ごとに担当がある。4年に1回その担当が回ってくる。毎年朝6時くらいに集まって自分たちで料理を作る。会場にお墓参りをしに来た人達に料理を御馳走する。今でも続いてる。
それぞれの集落で異なっており、お呼ばれなどもされて地域の絆があったが、生活改善ということで5月8日に統一された。
かつてはそれぞれの集落が別々の日程で祭りをしていたのだが、昭和天皇誕生日に統一されてしまった。祭りは手がかかるので他集落の手伝い(よい=結い)があることでやれていたことが、日程統一によってできなくなってしまった。
祭りの楽しみというと、子どもが相撲をしたり、楽屋を作って芝居を見たりしたものだった。のど自慢大会などもあった。店なども出るので、子どもたちは祭りの日は学校の勉強などそっちのけでお祭りに走ったものだった。
祭りを執行するのは、各自治体の執行部と寺田バリ組と呼ばれる3つの隣組。毎年移動していく。また、旗立て隣組というのもある。
昔は3日くらい行っていて、親戚や友達、近所など幅広く付き合っていた。今は隣近所の付き合いは昔に比べたらあまり無いだろう。
荷物送りの際に唄われる、民謡の一つと思われる。結婚式などでは必ず唄い、最初に迎える側がまず唄を唄い、半分からは迎えられる側が引き継いで唄った。迎える側は室内で迎えるため、正座をして、「ながもち唄」の本を見ながら唄ったそう。
鶴亀などが描かれた掛け軸の前で”三三九度”の杯を交わす。このとき”おなつぼう”と呼ばれる、幼稚園~小学1年生くらいの子供が男女一人ずついた。男の子は嫁さんへ、女の子は婿さんへ三つ重なっている杯を三回注いだ。この”おなつぼう”とは、今で言う巫女さんと同じ役割を果たしている。
嫁さんが家の人から「うしろ見るなー」と言われて来た。うしろを見てしまうと出戻りになるという風習があるためだ。だから、うしろは見ないで来なさいというのが親の教えだった。
結婚式当日の朝、お嫁さんの調度品(タンスなど)を送る1つの儀式のようなものをした。それを運ぶ際、「ながもち唄」という唄を「おうたい」が唄った。
嫁さんは”白むく”という服を着用し、また、”角隠し”というものを被った。この”角隠し”を被る理由は、女性の怒りを象徴する角を隠すといった意味がある。
若者組とは消防署(18KT)。中学校を卒業するとすぐに長男は消防(自治団)に入らなければならない。高校へ入学した場合は三年間入らなくてもよいが、その際には2升持ってお願いしに行く。(08AM)ただし集落によって風習は異なる(18KT)女性は入らない。(18KT)
貧しい小作人の家は地主の家にあんにゃ(兄)となり米などを貰ってきていた。そのくらい地主と小作人には差があった。(08AM)白米の弁当を持っていくと恥ずかしい時代。米がとれる人は白米を食べる。変に思われないよう大根の葉を白米の上に乗せ持って登校していた。(18KT)
祭りには「ふかす(赤飯)」を作って親類縁者に渡したものだった。各地区で祭りが行われるたびに、主催地区はよその地区に配る。これが大変な労力で、祭りが統一されたのは労力もあったからではないかと思う(10TD氏)。
子どもが入れ物に入れて赤飯を配る。入れ物にはお菓子を入れて返すこともあった。子どもたちはそのお菓子が楽しみだった。そのほか、お返しにはよく「つけ木」を入れたものだった。
自宅での葬式の際に家中の屏風を逆さに置く風習があった。亡くなった人を隠すという意味があるようだ。
遺体を棺桶に入れ火葬場まで運ぶ。松原の場合、喪主(主に長男)が白装束を着て、草鞋を履き、額紙をして棺桶を背負って運んだ。矢柏の一部の地域では喪主ではなく末っ子やその夫(亡くなった人といた期間が一番短い人)が運んだ。また矢柏の一部では駕籠で運んだ。
昔は結婚に様々な人たちが関わっていたため、隣近所のつながりが強かった。今は近所同士のつながりといったことが無いため、結婚式を行うにあたってもよっぽどの仲でなければ、関わらない人たちのほうが多いだろう。
谷柏では、中学3年生で長男が加入する。そして、20歳になると消防団に加入する。松原では、15歳から33歳の長男で構成された。青年会は、地域の労働力となり、この青年会への加入により一人前とみなされた。そして、「自分たちの地域」への意識を生みだす場でもあった。